先日、とある宴席に顔を出してきました。まぁ毎年この時期の恒例ではあるんだけど、詳細についてはパスで。
毎年の恒例なので、毎年この席で顔をあわせる人もいれば、そもそもこの席にいらっしゃるのが、年代的なものもあって初めてという人もいる。で、実は最初の段階で、以前一緒に仕事をしたことがある方も来ていることに気づいていました。以前といっても、もう10年以上も前のことになるかなぁ。
開始早々の賑やかさも一段落して、ひとりで食べているタイミングを見計らってその人に近づきます。おひさしぶりです、以前、別の会社でご一緒してましたよねと。まぁそれ以前に、そもそもこの席でお会いするということは、別のところでもつながりがあったわけなんだけどね。するとその人からは、途中まではまぁ予想通りだったとはいえ、途中からは予想の斜め上を行くような話をしてきました。
わたしと一緒にいたという会社では、75まで働いたと。ということは、5年くらい前まで現役バリバリだったわけだ。すごいなぁ、正直わたしは、あの会社であの勤務形態で、75までだなんてまったく自身がないぞ。実際にはやれると思うけど(爆)。だけど申し訳ないことに、あなたのことはちっとも覚えていないと。う〜ん、1年間だけとはいえ、一緒に仕事をしてたのになぁ。その人は続けて、こういう話をしてきました。
この仕事は恐ろしい仕事ですよ。あなたがこうして昔お世話になりましたったって話しかけてくるように、いろんな人が私のことを覚えてくれている。でもね、僕自身は誰のことも覚えていないんだよ。それって申し訳なくて、そして恐ろしいことだなぁって思うんだよ。
う〜ん、今もその「恐ろしい仕事」というものをしているわたし自身が振り返って考えてみると、確かにお客さんのことを覚えているけれど覚えていなかったりもする。75まで働いたならばあまりにもお客さんの数が多すぎて、誰のことも思い出せないって境地に至ってしまうのかもしれないなぁ。
それでもわたしはたぶん、誰も思い出せないことを申し訳ないとは思うだろうけど、事実思い出せなくて申し訳ないと思ったことは何度でもあるけど、だからって恐ろしい仕事だとは思わないかなぁ。思い出せなくて、笑って許してもらっていたとか笑ってやり過ごしたとか、無理やり記憶の引き出しを開けてもらったりしたことも何度かあったけれど。例えるならば自分自身は誰に何をしたかすっかり忘れてしまっていたとしても、そのしたことや共に過ごした日々は相手に何かしらの形で残って、今の相手のどこかの血や肉にはなっている。
だからわたしは何も覚えていなかったとしても、相手のことはわたしを覚えている。なんだか申し訳ない気もするけれど、それって誰がしたかは誰も覚えていないけれど、それをしたことは確かに記憶や記録として残っていくってことにも通じる気がして悪い気はしない。
ユーミンは自身の作った歌だということがやがては忘れられて、いつか詠み人知らずの世界になっても残っていくことが夢だって話を聞いたことがあるけれど、それにも通じる気がしてなんだか悪い気がしない。もしかしたらまだわたしは、この仕事の奥深さをそこまで知らず、恐ろしさもわからないでいるのかもしれないな。ツラの皮が厚いってことなのでしょう。
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弁当屋の時は月間累計10,000人のお客さんが来ていて、
そのうち500人ぐらいは常連さんだったので、好みやら住所やら結構覚えていたし、街でも声を掛けられたりしました。
で、業態が変わっちゃったら結構忘れてしまって、卒業スタッフなどにも話し掛けられたりして申し訳ないと思う事もあります。
で、この間経験した、某画家さんの個展の会場で今のお客さんに三人も話しかけられました。近年の話ですから、何とか記憶を辿って思い出しましたが、そうやって誰かの心に残る店であり続けたいと再度思いました。
ところが自分自身は、いつどこでその人に、どんな話をしたかなんてちっとも覚えていない。それほどいい話なら、それなりに気合を入れてした話だろうから覚えていてもいいだろうに、まったく記憶にない。日頃考えていることの範囲内でしかしゃべれないし、しゃべらないから、わたしにとってはたぶん、日常的なことでしかないと思うんだけどね。
そう考えると、自分の中にないような虚構とか、偽善的なこととかを、もっともらしく語るようなことのほうが、よっぽど恐ろしいかもしれないなぁ。人を相手にする以上、いつだって自分は自分であり続けるってこと、もしかしてものすごく大切なのかもしれませんね。